ゲリ・ラウバルーAngelika Maria Raubalー

Angelika Maria Raubal(4th June 1908 - 18th September 1931)

父レオ・ラウバルと、ヒトラーの異母姉アンゲラ・ヒトラーの娘。
8歳の時に父が死去し、
以降母がヒトラーの身の回りの世話をした事から、
ゲリとヒトラーは密接な関係となる。

ゲリに関しては、
特別美人であったわけではないが、
天真爛漫でお転婆、気も強く奔放であり、
何とも言えない魅力があった、
と証言されている。

もともとそういう性格であった事もあって、
ヒトラーが自身がナチ党のリーダーとなって以降、
ゲリを過保護にし、
いつどこへ行くにも付き添いをつけさせたと言う。

その束縛の傍らで、
惚れっぽい一面があったゲリは、
ヒトラーの運転手と恋に落ち勝手に婚約しヒトラーを激怒させたり(運転手は解雇された)
オーストリアの画家と恋に落ちた際には、
ヒトラーと姉のアンゲラによって別れさせられたりもしている。

9月17日、
ヒトラーとふたりだけの昼食を取った後、
ヒトラーがすぐにニュルンベルクでの幹部会に出席しなければならない事で激しい口論となった。
ヒトラーがニュルンベルクへ向かった後、
愛人エヴァからのラブレターを発見したゲリは、
その手紙をビリビリに破り、
「邪魔をしないで欲しい」と家政婦に告げた後、
自室に籠り拳銃自殺を果たしたと言われている。

家政婦は夜中に鈍い物音を聞いていたが、
特別騒ぎ立てるようなほどではないと、
そのまま眠りにつき、
翌朝、すでに死亡したゲリが発見された。

激しい音が鳴らないように、
拳銃を布で包み、口の中へ発砲したとヒトラーが語っていた事を、
エヴァブラウンが後に記している。

ヒトラーはすぐにミュンヘンのアパートヘ戻って来たが、
遺体は既に警察に届けられていた。
ゲリの葬儀はウィーンで営まれたが、
当時オーストラリアへの入国を拒否されていたヒトラーは、
ゲリの葬儀に立ち会えなかった。 

葬儀を終えた深夜、
ヒトラーは密かに自動車でオーストラリアに潜入し、
ゲリの墓参りをした。

ゲリが自身を撃った銃は、
ヒトラーがかつてゲリに護身用として渡した6.34口径のものであった。

アドルフ・ヒトラーーAdolf Hitlerー(その生涯)

Adolf Hitler(20th April 1889 - 30th April 1945)

ドイツとオーストリアの国境にある都市ブラウナウで、
父アロイスと3番目の妻クララの間の子として生誕。

兄弟は異母兄弟含めて7人。
父アロイスの父が誰なのか判明していなかった事から、
ヒトラーの血にはユダヤの血が流れていたのではないか、
という説が当時からあった。

ヒトラー自身、自分の家系について疑問を持っていた為、
後日独自で調査をしたが、
曖昧なままで終わっている。

2010年にヒトラーの近親者からDNAを採取し鑑定した結果、
ヒトラーの祖先は、
北アフリカとユダヤ人の混血だった可能性が高い、
という調査結果も出ている。


母との関係は良好だったが、
父とは折り合いが悪かった。
父の仕事の為に引っ越しを繰り返したヒトラーは、
将来は聖職者になりたいという夢も幼くして挫かれ、
真面目だった幼少期から一変し、
中学を卒業する頃には口答えの激しい反抗的な子供へと育つ。

ヒトラーが最初にドイツ民族主義(大ドイツ主義=ドイツ統一を目指し、オーストリアを含めるという国家方針)に傾倒しはじめたのは、
この頃であったと言われている。
なぜなら、父はオーストリア国主の支持者であり、
オーストリアを根底から揺るがす大ドイツ主義を嫌っていたからである。

父没後、ヒトラーは数々の学校を退学しながら、
美術の勉強をしにウィーンに渡るも、
美術大学の入学試験には2度も失敗した。

もともと人物を描く事が苦手だったヒトラーは、
二度目の受験失敗の際に「建築家になってはどうか」とのアドバイスを受ける。
しかし、建築大学を受験する資格として、
中等学校(現在の高校)の卒業が必要だと分かり、
ヒトラーは建築家の道も諦める事となる。

そこから数年放浪生活を送り、
図書室で本を借りては、反ユダヤ主義や人種理論などの、
偏った知識を得て行った。


女性関係については、
よくあるやり手の男のように華々しかったわけではない。
性的不能であったのではないかという説が浮上するほどである。

姪のアンゲリカ(ゲリ=ラウバル)を寵愛し、
別荘ベリルホークに住まわせたが、
いわゆる近親相姦的な関係であったかどうかの確証はない。
ゲリは23歳の若さで拳銃自殺し死亡した。
以降、ヒトラーは一切の肉を受け付けなくなり、
完全な菜食主義へと転化する。

女性党員からの支持を得るため為、
固定の女性との表立った付き合いを避けていたが、
ゲリ亡き後、
愛人がいた。
ヒトラーが地下壕の中で自殺を計る前日に、
妻として迎えたエヴァ=ブラウンである。

ヒトラーはこうも言い残している。
「エヴァは好ましい女性だが、わたしが生涯愛したのはただひとり、ゲリだけだ」

ふたりの女性については後述する。

優生学ーEUGENICSー

優生学とは、
簡単に言えば、
「素晴らしい人間を創造し、社会に残そう」
という運動。
20世紀初頭に強く支持された。
現在は、廃れてしまったもの。

この優生学を元に、人種差別やジェノサイドが起こり、
障害者への差別などもあったのが、20世紀初頭の社会であったとも言える。

ナチスの人権政策は、この優生学に基づいており、
ゲルマン民族(学説的にはゲルマン民族というものは存在しない。大まかに言えばドイツ人は北方人種の血を受け継いでおり、その血を引き継ぐものをゲルマン人と称した)は民族として大変優れているので、 
ゲルマン人の血を増やそう、
その他の民族はヨーロッパから追い出してしまえ、という政策だった。

何か他に置き換えるとしたら、
黒人への人種差別なども取り上げられるだろうが、
ナチスの人権政策はこれとは少し意味合いが変わって来る。

当時のヨーロッパは、金融などの経済の主な流れをユダヤ人に握られており、
ユダヤ人への妬みや恨みで、日常的に迫害が行われていた。
ユダヤ人お断りの看板が店に並んでいるような時代。
なぜ、元々住んでいた原住民であるゲルマン人を差し置いて、
ユダヤが裕福になっていくのかという憤りの気持ちで、
ドイツをはじめとするヨーロッパ全体が団結していた時代だった。

ユダヤ人はずる賢い、
だからヨーロッパには邪魔である、
という感覚。

悲しい事だし、
今では信じられない事だが、
ナチスの、
ユダヤ人・ジプシー・身体障害者を排除せよ、
という政策に、
賛同した人が多い時代背景があったという事だ。
でなければ、
ナチスが政権を握るような事はありえなかったし、
ヒトラーが神のようにあがめられる事もなかった。 

ハーケンクロイツーHakenkreuzー

右卍文字は、1935年にドイツ国旗となったマーク。

元は、密教やヒンドゥー教の右まんじ「卍」=幸福のシンボル、という意味を持ち、
日本の地図ではお寺を意味するマークなのだが、
現在、
ナチスがこのマークをシンボルとして掲げた事により、
もはやナチスしか思い浮かばないマークになってしまった為、
いろんな国で卍マークは法律上使用禁止となっている。

ナチスのマークとして卍を取り上げたのは、
ドイツの考古学者がトロイの遺跡の中で卍を発見し、
卍をインド・ヨーロッパ語族(※アーリアン学説)共通の宗教的シンボルと見なした為である。


※アーリアン学説
インド・ヨーロッパ語族の祖先は、アーリア人であるという学説。
アーリア(aryan)はサンスクリット語で「高貴な」を表す言葉。
この学説がのちの優生学に繋がって行くものと考えられる。